こうして、私のS銀行入行は決まったのです。
あとになって考えてみれば、人事部は、私について、あらかじめ調べていたのだとは思います。
友人が今度連れてくるNというのはこういう人間であると説明していたにちがいありませんし、S銀行人事部には大学の先輩もいました。
私の採用が、その日たった2回の面接で決まったことは確かです。
S銀行という企業は、当時から、それほど物事を決めるのが早かったということでしょう。
いや、まったくそんなことはありません。
競争は望むところだと豪語してしまったのですが、若い頃はパッとしない日々が続きました。
入行式を終えて、1カ月あまりの研修を受けると、配属が決まります。
新人は全員、営業店に散らばります。
同期の多くが大きな営業店に配属される中で、私の配属先は「大正区支店」という、S銀行の中では比較的小さな営業店でした。
大正区支店に大卒新人で配属されたのは、私が初めてでした。
同期で配属された人たちは、私以外はすべて高卒の人たちでした。
支店全体でも、門人ほどの行員がいる中で、大卒は4年上の先輩と私の二人だけでした。
私は大卒の同期仲間から離れ、たった一人で別世界に放り出された心境でしたし、支店即決で採用が決まったということは、期待の新人だったわけですね。
最初の年は、預金や、当時は貸付と言っていた融資の事務などをやっていました。
当時はまだ、計算は電卓ではなくソロバンの時代でした。
ソロバンなど小学校の授業以来ほとんどやったことがなく、私はいつも計算が合わずフウフウ言っていました。
私が最も早く外回りに出たのではないでしょうか。
それだけ、大正区支店が小さい所帯だったということです。
大阪で言えば、船場支店のような大きな営業店とか、本店営業部などに配属されると、外回りはなかなか新人には回ってきませんでした。
当時は、そんな外回りをドサ回りなどと呼んでいました。
徒歩や自転車でお客さん回りをするわけですが、何と言っても、私は4人ほどいる外回り担当の中で末席です。
当然、何も期待されていない。
営業店には、いろいろな営業目標がありますが、入行2年目の若造などに業績への貢献を期待しても仕方がありません。
目標達成のために懸命になって働いていたのは、高卒のベテラン行員の人たちでした。
私は、担当先も担当地域も何も持たされていない。
どこでもいいから、店の周辺を回ったそうです。
日本は敗戦後の復興から経済成長の端緒を得、1956年度の経済白書では、「なべ底景気」へと、国内景気は激しく動きました。
翌弱年には現在の天皇皇后両陛下のご成婚があり、テレビなどの家電製品がよく売れ、日本は高度経済成長の道をひた走しり、言われていました。
私の指導をする手間も惜しかったのかもしれませんが、すぐ好きなようにやっていろと言われる身はそう楽ではありません。
何も期待されていないというのは辛いものです。
そこで、先輩たちが担当していないお客さんのもとに飛び込み営業する日々が始まりました。
預金獲得をねらった飛び込みセールスです。
すね。
私が就職する年の前年の1960年、政治的には、日米安全保障条約の改定をめぐって、国内は騒然たるムードでした。
結局、岸信介内閣は帥年7月に退陣。
そのあとには「所得倍増論」を掲げた池田勇人内閣が誕生しました。
テレビが急速に普及したのはこの頃です。
1958年には肥%にすぎなかった普及率はました。
当時は白黒テレビでしたが、白黒テレビと冷蔵庫、洗濯機が三種の神器と呼ばれました。
とはいえ、まだまだ日本には輸出競争力はなく、輸出できるのは廉価なスカートやブラウスといった繊維製品などに限られていました。
他方、経済拡大のための原材料や資本財の輸入は増える一方でした。
経済成長は最重要課題でしたが、それだけに輸出が伸びないと貿易収支がすぐに赤字になってしまい、そのたびに金融引締めが行なわれていました。
私がS銀行に入行した1961年の7月にも日銀は公定歩合を引き上げる金融引締め策を行ないましたが、それでも、国内経済は拡大し続けました。
実に、この年の経済成長率は名目ベースで10%台、実質ベースでも15%台という、現在の感覚では信じられないような著しい高さでした。
この好景気は岩戸景気と呼ばれるものです。
企業の設備投資は活発であり、大変な資金不足状態でした。
さらに1964年の東京オリンピック開催が決定したことで、大企業などの設備投資気運は一段と盛り上がりました。
そうなると、お金を借りたいという資金需要が強いにもかかわらず、銀行には貸すお金がない。
今では考えられないような状態でした。
当時、都市銀行の貸出残高は毎年、前年に比べて別%前後も伸びていたのです。
今は、伸びても1%に満たないような状態ですから、当時の資金需要のすさまじい強さが分かります。
そんな中で銀行が貸出を行なうためには、原資となる預金を必死に集めなければなりませんでした。
また、「投資が投資を呼ぶ」というような状況下で、証券ブームが沸き起こって、取扱いが始まったばかりの投資信託が飛ぶように売れました。
勢いに乗った証券業界では、日興護券(当時)が「銀行よ、さようなら。
証券よ、こんにちは」というキャッチコピーを流して話題を呼びました。
私が新人行員として外回りを命じられたのはそんな時代です。
したがって、当然ながら、やるべきことは預金獲得でしかなかった。
貸付などやらせてもらえるはずはありません。
来る日も来る日も、預金集めばかり。
厚い布製の鞄を引さげて、徒歩や自転車で回り続けました。
いやいや、自慢できるような話はほとんどありません。
いくらどこでもいいから回れと言われても、むやみやたらと回っていたら、預金が獲得できるはずはありません。
そこで私も新人なりに頭を働かせました。
当時、銀行には、お客さんの普通預金口座の出入り残高をお客さんごとにカードに記録する会計機がありました。
今で言う顧客情報フそのカードを見ると、既存先と呼ぶ、自分の銀行に預金口座があるお客さんの預金残高と、銀行の担当者が分かる。
そこで私は、預金残高が多くて、何らかの事情で誰も担当者がいなくなってしまった既存先のお客さんをリストアップし、そこを中心に回ることにしました。
そのついでに、新規開拓のため、新しいお客さんのところもあちこち回る。
といっても、預金はなかなか集まりません。
新人ではあっても、一応、月間目標額などが課されるのですが、どうがんばっても、到底、目標額には到達しません。
ほんとうに苦労しました。
もっとも、銀行自体はまだおおらかな時代でした。
たとえば、4月頃に外回りに出た際には、「車の免許を取ってこい」と命じられて、昼休みを利用して自動車教習所に通いました。
外回りの営業に車の運転は必要であるということで費用はすべて銀行持ちでした。
そうこうしているうちに、ようやく、目標を達成する機会が訪れました。
8月のことです。
今でも覚えていますが、月間の目標額は1000万円。
それを達成できました。
支店次長が支店長に「N君が、今月は目標達成したようですよ」と報告してくれました。
今では目標額1000万円など、驚くほどの金額ではありませんが、当時としてはかなりの金額です。
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